ゲームの話をするとしよう

遊んだゲームの感想とか攻略情報のような何かとか

ドラゴンクエストユア・ストーリーの話(ネタバレあり)

dq-movie.com

賛否両論と言うよりは否が多いという印象の話題の映画、ドラゴンクエスト ユア・ストーリー。

令和のデビルマンだとかなんだとか色々と言われまくっているので逆にあまりに気になりすぎて見に行きました。

ドラクエ映画でなければアリなのでは?という肯定意見も中にはあったりしたのでそのあたりも含めてどんなもんかとか、雑とか無神経とかさんざん言われていて悪名高い山崎監督がどんな脚本を書いたのかを一度見てみたいと思ったのもあります。

感想としては、面白いと思える部分は確かにあったんですけど、雑という言葉の意味を魂で感じました。単なる娯楽作品として考えても割と微妙です。音と映像がよければ映画だと思うなよ、という感じではあります。

映画館での独特のお通夜の空気を味わいたいだとかそういう斜に構えた方であればオススメできますが、ドラクエではなく普通の映画として判断しても他の映画見たらええんちゃう?というくらいの作品ですね。

ただ、各種感想で言われている部分については「聞いてたのと違う」となった部分も多く、逆に他であまり触れられていない部分に関して個人的にかなり怒りポイントと言うか、そこをそうしちゃダメだろ、と思ったことがあったのでそのあたりについて触れながらどこが好みでどこがダメだったかなど話せればいいなーと。

二万字前後のクソ長文でネタバレとかも気にせずにやっていくスタイルですので、大丈夫な方は続きをどうぞ。

あ、その前に一言。この映画はドラクエを題材にしないとできないことをやったし、ドラクエを題材にしたからこそこの映画だし、この映画には確かにドラゴンクエストである意味はありました。オリジナルのタイトルじゃこれは絶対にできません。

問題はその「意味」がマイナス方面に振り切れていることです。 四次元殺法コンビのアレ※かな?

(※「良い子の諸君!

よく頭のおかしいライターやクリエイター気取りのバカが

「誰もやらなかった事に挑戦する」とほざくが

大抵それは「先人が思いついたけどあえてやらなかった」ことだ

王道が何故面白いか理解できない人間に面白い話は

作れないぞ!」っていうアレ)

とりあえず一つ言いたいことは、「誰でも楽しめる」ことを目指してきたドラゴンクエストの名前を冠するのであれば、そもそも賛否が分かれるような作品を作ることそのものがコンセプトには合わないのではないかってあたりですかね。

心に傷をつけることのできる芸術はある意味で優れているのかもしれませんが、ドラクエは芸術ではなくエンターテイメントなんじゃないですかね。

ドラクエである意味がありながらドラクエとしては低評価にならざるを得ないって不思議な作品だと思います。

 

 

物語の流れ

これについては実際に視聴した方ならご存じでしょうし多くの感想でも触れられている部分ですが、話しやすくするために大まかにまとめます。ただしゲームプレイ済みの方でないと分からないと思います。

  • 出だしの幼少期パートはカットされ、ゲーム画面(風)の表示によるダイジェスト。天空の剣は魔界に封じた大魔王ミルドラースを再封印する鍵であることが語られる
  • 主人公とパパスの修行→ラインハットに行く→ヘンリー王子の誘拐から奴隷にされるまでを超駆け足。パパスさん本当に死ぬの早かったですね……。
  • 神殿のある山頂から逃走、見張りに追われるが通りがかった酒場の主人(これがプサンマスタードラゴン)に助けられてどうにか脱出。
  • ラインハットでヘンリーと分かれ(偽皇后の話とかはオミット)、サンタローズに戻りサンチョと再会。
  • 伝説の勇者や天空人の話を聞いた後、主人公がは血筋的に勇者かもしれない、ルドマンが天空の剣を見つけたから取りに行こうぜ、という話になりサラボナへ。
  • 道中でスラリンを仲間にし、ゲレゲレと再会したCGダイジェスト。
  • サラボナにつくとブオーンに襲われて町はボロボロ。ルドマンはブオーン退治したら娘と結婚して跡継ぎにするよとお触れを出す。
  • 最初は乗り気じゃなかったけど実際に会ったフローラが可愛かったからやる気になって退治しに行く→失敗。
  • 逃げ帰った先でビアンカと再会、ブオーン討伐再チャレンジ。今度は成功。
  • ビアンカに応援されてフローラへプロポーズ。フローラも喜ぶが、そんなフローラにビアンカの話ばっかりするので「あっ(察し)」となるフローラ。
  • その夜に宿に戻ると謎の占いオババが現れ、主人公は薬をおしつけられる。飲んだら「実は自分が好きだったのはビアンカだった」と気づく。
  • ルドマンへ謝罪して婚約破棄、ビアンカにプロポーズ。でも天空の剣は世界ヤバすぎるのでこれからも勇者探しをするという主人公へ渡される。
  • なお占いオババは実は推定変化の杖で変化したフローラでした。大好きなあなたの本当の恋を応援しますムーブ。
  • サンタローズに戻り、サンチョに報告。子供も生まれる。男の子だけ。ダイジェスト
  • ゲマの暗躍ムービーを挿み彼らからの強襲。子供はサンチョが逃がす。主人公はそのまま石に。何かに感づいたゲマはビアンカを連れ去る。
  • ビアンカ実は天空人でした。ミルドラース復活のために利用しようとするがビアンカ拒否、石にされる。
  • 成長した息子が主人公を石から戻す。同時に勇者であることが発覚。ビアンカを助けるために以前ルドマンに聞いた情報を頼りにマスタードラゴンを探す。
  • 敵本拠地のふもとでプサンと再会。マスタードラゴンだと判明するが、オーブがなくドラゴンに変身できないので願いをなんでも叶えてくれるという妖精の都に行く。
  • 妖精の力で過去に戻り、オーブすり替えイベント。ビアンカ奪還作戦へ。
  • ビアンカ救出、そのままマーサも助けようぜ!と進軍
  • マーサが「なんかヤバイから帰れ、自分が封印しとくから」と促すがそのマーサのバリアがゲマに破られて殺される。
  • 大乱闘スマッシュブラザーズ。あまりの魔物の数に不利になるが、応援のヘンリーとブオーンが駆けつけて形勢逆転、ゲマを倒すことに成功。
  • しかし殺されたマーサの力を奪ったゲマが魔界の門を開くことに成功。息子がならば再封印だと天空の剣を魔界の門に投げ込む。
  • これで魔界の門は封印できたぞ!と喜んでるところに例のアレ。
  • ウイルス登場。実はこの世界はVRゲームだったんだよ!な、なんだってー!
  • ウイルス「大人になれって製作者が言ってる」
  • 主人公「うっせバーカ、ゲームの世界は俺にとって本物なんだよ」
  • 例のスラリン「負けるな、俺はワクチンだ!あいつを倒すんだ!」
  • スラリンから出て来たロトの剣でウイルス撃退、そして伝説へ……(悪い方の)

 

主人公の設定と世界観

この主人公くんは既に社会人であり、過去に実際にドラクエをプレイしているれっきとしたユーザーで、今回新たにリメイクされたVRドラゴンクエストをプレイしている、という設定です。

幼少期がゲーム画面のダイジェストで流れていたのは、幼少期をスキップする設定を選んでいたからだ、というのも物語中に語られます。

また、普段はビアンカを選んでいたが今回はフローラを選んでみたい、でもついついビアンカを選んでしまうからちゃんとフローラを選べるようにしておこう、と自己暗示プログラムというものも設定しています。

そして実際のゲーム中はゲームの中の世界に浸れるように、現実の記憶を封印してあたかもその世界で自分が育ったかのように振舞うことができるようになっています。

この時点で言いたいことはなくもないのですが、それは置いておきましょう。

そうしてゲームをプレイする主人公ですが、記憶を消してまで実際にその世界の住人として役に入り込んでいるはずなのにロボットとかクエストとか現代風の言葉は使うし、父親を殺され10年奴隷生活を強いられてきて敵側に恨みもあれば冒険の理由もあるはずなのにやけに弱腰で、冒険に出た時も嫌々でした。

結婚イベントではフローラに本当はビアンカの方が好きだということを見破られ、自分の本心に気付く薬というご都合主義アイテムを飲まされることで暗示が解け、やっぱりビアンカの方が好きだ、となってビアンカと結婚するわけです。

物語の設定と実際のプレイ=映画で辿って来たストーリーの整合性がめちゃくちゃなのですが、誰もそれに突っ込みを入れなかったのだろうかと困惑します。

 

描写されないドラクエの世界観

大体のゲームでは、序盤のプレイで世界観の説明があったり、直接解説はなくてもその描写でどんな世界なのかなんとなく雰囲気はつかめるようになっています。

ですが、作中では特に何の前触れもなく魔法は使うし黒焦げの怪我をすぐに直せるような薬草はでてくるし老婆に姿を変えられる変化の杖は出てくるし石化した主人公たちを元に戻すためのストロスの杖は出てきます。

剣と魔法のファンタジー世界なんだから魔法くらい使えるだろう、というのもあるかもしれませんが、古今東西のファンタジー世界における魔法の概念って結構バラバラなんですよ。呪文が必要だったり陣が必要だったり精霊やら妖精やらとの契約が必要だったり悪魔の業だったり。

それでもメラ、バギ、イオといった見た目で何をしているか分かりやすい攻撃魔法はいいのですが、作中でラリホーマとか使ってくるんですよ。敵が。

それが相手を眠らせる呪文だと理解できるのってゲームをしたことがある人だけじゃないですか。初めての人からしたらなんか敵が謎の言葉を叫んだらいきなり気を失って「は?」ってなるんじゃないでしょうか。

というかあの映画そういえばホイミ出てこなかったなぁ……回復魔法って主人公の特徴の一つだと思うんだけどなあ……。パパスのホイミも存在しなかったなぁ……。親子三代の物語をクローズアップした#とは?

あとは出てくる街や村も一握りですし、その一握りですら全体がちらっと映るだけで街をまわったりとかモブと触れあったり(単なるイベント会話じゃなくて日常会話的な)という場面がないんですよね。室内がまともに描写されるのってサンタローズの自宅くらいじゃないですか?宿や酒場もちらっと、ルドマンの家も一度だけ一部のみで描写されない部分が多すぎるんですよね。主人公の筋肉を盛る暇があったら正直そっちの描写に力を入れるべきだと思います。生活感のない世界なんて嘘くささの代表じゃないですか。

※参考リンク

movie.walkerplus.com

世界の危機だというのに狭い世界での出来事しか語られず、かといってセカイ系ほど主人公の身の回りをきっちり描写しているわけでもない。説明不足な点は全部ゲームで補うことになります。

元体験を呼び起こすことでゲームを遊んだ人の感情を揺さぶることはできると思いますが、原作者である堀井さんの注文のひとつである、初見の人が楽しめるという依頼がこなせてないんじゃないでしょうか。

初見の人の多くは多分ストーリー展開が早すぎて感情移入とかする暇がなかったんじゃないかなと思います。だからラストの展開でも怒るとかなんだとか以前についていけなかった人もいたんじゃないかなあ。

 

キャラ設定とはまるで異なる言動

主人公はゲームの世界に入る前に、いくつか設定を行いました。

  • 幼少期はスキップ
  • ロボットと戦いたい
  • フローラと結婚したい
  • 主人公の名前がリュカ

といったものです。

ですが、本当に「いつもビアンカを選んじゃう」と言っちゃうくらいに過去に何度もドラクエをプレイしてきたユーザーであるならリメイクでどこがどう変わったのかというのは普通気になるのではないでしょうか。

特に幼少期なんて、SFCの頃はビアンカとしか会わなかったのにリメイクから船でフローラとの邂逅を描くなど、これまでにも変更が成されてきた個所です。

ドラクエ好きならそういう違いを楽しみたいと思わないんですか?原理主義者なら別に変更点なんてどうでもいいからとカットするかもしれませんけど、リメイクをプレイするならそうじゃないですよね?おまけに子供の時だけでなく、高校生くらいになった時もPS2ドラクエをやってる描写が入ってたわけで、他のリメイクも履修済みなんですよね?いったいリメイクのどこを楽しみにしているんでしょうか。

 あと「ロボットと戦いたい」というのもよく分かりません。

いやだってマシンの敵普通に5に出てきますやん。キラーマシンっていますやん。というか仲間にできますやん。お前はロビンを何だと思っているんだ。

まあキラーマシンが出てくるのはカットされた魔界なので、そういう意味ではちゃんと頼んでおかないと戦えないというのは分かりますし、ある種のヘビーユーザーアピールにもなります(カットされた地域でしか出現しないということが分かるほど知識があるということになるので)が、それならキラーマシンと戦いたいと言えばいいわけでロボットと言う意味がないです。

とここまで書いて気が付いたのですが、め、メタルハンター!メタルハンターがおるやないか!サラボナに出るやないか!(よく考えたら映画の魔物もカラーリングからするとメタルハンターの方なのでは?) えっますますロボットの下りがまるで意味が分からんぞ!メタルハンターを忘れていた自分が言うのもなんだけどお前はドラクエの何をプレイしてきたんだ!

フローラに関しては単品で見るとそこまで変なことは言っていないのですが、主人公がフローラを選びたがっている際の言動は人によっては鼻につくものがあるでしょうし、何よりこの自己暗示がシナリオを崩壊させる一因となるのです。

また、主人公の名前をリュカにしたことについてもそれ自体に問題があるわけではないのですが、主人公を自分自身として扱ってほしいはずのドラクエにおいて、公式とは言え既にキャラクターの固まった自分とは違うヒーローの名前を持ってくるのは「あなた自身の物語」というコンセプトには合いません。

本来はどんな名前を使おうが別のキャラの名前を使おうが、それもひとつの「あなた自身の物語」であるはずですしあるべきなんですが、映画の設定として常に主人公は趣味嗜好から何からすべて本人通りであり性格も現実の己と同じものであるべきだという謎のこだわりがあるようですので、そのこだわりにはリュカという魅力あふれるけれど自分とは明らかに違うヒーローの名前は致命的に合わないんです。

あとこれは主人公が選んだのではなくて劇中ゲームの設定ではありますが、現実の記憶を一時的に思い出せなくなった状態でプレイするというのもかなり意味不明でした。

これまで何度もドラクエを遊んできたはずの主人公ですよ。最新のVRとは比べようもないほどの「チープな」世界に、それでも入り込んでいたはずなんです。

そんな主人公が記憶を無くさなければ物語の世界に没入できないなんてあります?勝手の分からないゲーム初体験の人じゃないんですよ?リメイク全制覇してきたユーザーなんですよ?

スタートからゴールまで設定が物語とかみ合ってないんですよ、これ。

 

ロールプレイングゲームと主人公と私

主人公は最新のVRゲームをしにきました。そしてドラクエRPGです。

ロールプレイングゲーム。この意味がおわかりでしょうか。

ja.wikipedia.org

 

ドラクエはあくまで「主人公になりきって主人公を演じて遊ぶゲーム」であって、架空の世界の中で普通ならできないはずの体験をして、まるでその物語の中に入り込んだような感覚を味わえるもののはずです。

そしてドラクエは作者の意向として「初心者でも楽しめるように」といったコンセプトがなされていることもあり、主人公=自分として遊ぶことが推奨されています。

しかしながら、そもそもこれは厳密に言えばおかしいのです。自分ではない誰かになって遊ぶためのものなのに、そこにいるのが本当に自分自身であるならそれはロールプレイ(演技)ではないんですよ。

ゲームの世界にいる主人公は確かに主人公の投影であり、自分の分身です。しかしそこにいるのは本人ではありません。本当にそこにいるのが「私」であるなら、自分ならそもそも冒険の旅になんていきません。なんでそんな面倒で危険なことをやらないといけないのか。

でも「私」は冒険の旅に出て、魔物を倒し、世界を救いにいくのです。なぜかって?

ゲームだからです。本当じゃないからです。現実の自分には安全が保障されているからこそ危険な物語の主役を楽しめるし、本当の自分じゃないからこそ時にリアルでない選択肢を取ることができるし、理想を演じているからこそ普通じゃ怖くて勇気をだせないような場面で堂々と正しいことができる。

けれど、そうして架空の世界で得た経験は、いつしか「ゲームでできたんだから実際の世界でもきっと冒険できる」「あのときの主人公の勇気は自分の中にも確かにある」と自分を信じる力になり、現実を豊かにしていくのです。

個人的にはゲームの世界は空想だけど魂は宿るし経験は本物になる、という認識なのでゲームの世界を「俺にとって本物の世界」と言うタイプの人とは否定はしないけど微妙に解釈がずれてる感じなので主人公の言動が解釈違いなんですよね。

閑話休題。ゲームの主人公は、確かにプレイヤーの分身であり一部であり「私」であるけれど、同時に決して自分と100%重なることもない、そんな存在なのです。

心理学で言うペルソナの概念に近い、と言えば分かる人には分かるでしょうか。

(リアルでは絶対できない悪役プレイの楽しみとかもあったりしますし、そちらはなおさら自分自身ではないですがそのへんも話し出すと長くなるので省略します)

ドラクエが主人公と自分をイコールでつなぐのは、その方がRP初心者が分かりやすいからだと思います。

いきなり物語の中に全く別のキャラとして入り込むなんて、芝居経験のない人間にはかなりハードルが高いはずです。

物語を読むような感覚で遊べるタイプのゲームではなく、体験型、自分が主体となって回していくタイプのゲームであるなら、極力自分と近しい設定にした方が動かしやすいですし、その結果帰ってくる反応も受け入れやすくなります。

ですが本来それはゲームに強要されるべきものではありません。自分の分身は必ずしも自分自身でないといけないわけではありません。主人公の名前に好きなマンガやアニメのキャラの名前をつけることも、憧れの人の名前をつけることも、家族の名前をつけることも、同時に認められるべきなのです。

 主人公に自分の名前をつけないプレイヤーが、実際にそこにいるのですから。ねえ、「リュカ」さん。

 

 ロール・プレイング・ゲームからロールプレイングを否定される矛盾

さて、映画の話に戻りましょう。

主人公は記憶を封印してゲーム世界に入り込みます。そこにいる「リュカ」はゲームを遊んでいるのではなく、ゲーム世界という「彼にとっての現実」を生きています。

それはそれで確かに新しい面白さがあるかもしれません。何かの気付きがあるかもしれません。

でもそれってロールプレイじゃありませんよね?

いかにもな冒険は怖いし、危険なことはやりたくない。だって本当は現代っ子でただの社会人で、剣を持って戦うような人間じゃないから。

でもそれってロールプレイじゃありませんよね?

ビアンカとフローラ、フローラと結婚するつもりだったけれど、本心ではビアンカの方が好きだった。だからビアンカと結婚した。

でもそれってロールプレイじゃありませんよね?

私の心の中のミストさんもあきれ顔です。

いや、そりゃあ確かにゲーム世界に突然変異で現代人の感覚と等しい感覚を持って育つ可能性はゼロじゃないですし、そういうキャラのロールプレイなんだ!と言えばそれまでではあるんですけど。

それははたして自分でありながら自分でない誰かを演じるという、ロールプレイの楽しさを体験できるものなのでしょうか。というか全然役に入り込めていないんですがそれは。記憶を消した意味とは?それならいっそのこと異世界転生召喚勇者を演じた方がよっぽど真に迫ったロールプレイできますよ。

特にフローラのくだりなんて、主人公はフローラを選ぶというロールプレイがしたくてそういう設定を事前にしていたわけです。

ですがそれはフローラ本人から否定されました。あなたの好きな人は私じゃないと。

ある意味では正しいことではあるんです。いくら自分が好きな男性と結婚できるとしても、その男性が結婚後もずっと他の女性を向いている可能性があるんですよ。現実の女性だとしても、それでもいいという人もいるでしょうが普通に嫌だって人も当然いるでしょう。

しかしながらリアルの自分であれば選ばないフローラをゲームだからこそ選ぶというのは立派なロールプレイですし、ゲームだからこそ現実の女性を傷つけることなく、かつ結婚によってフローラの今まで知らなかった魅力を発見できる可能性があるのです。そういうのもロールプレイの醍醐味の一つじゃないんでしょうか。

フローラ派の人だってビアンカ派の人にも一度フローラを選んでみてほしい、フローラの魅力を知って欲しいと思っている人はいるはずですよ。

ロールプレイングゲームを楽しみにきたはずが、謎のゲーム自身によるリアル志向のせいでロールプレイを否定され、リアルとして扱えと圧力をかけてくるわけです。

ゲームをしていて上から目線で「お前のロールプレイは不正解だ。ビアンカを選ぶのが正しいロールプレイだ」とゲーム自身に強制されるってどんなクソゲーですか。

主人公がビアンカを好きだと実感するには主体性がないと駄目だと思います。一目ぼれしたのがフローラ、でも実際に冒険してみて伴侶として本当に選ぶべきなのはビアンカだと気づいた、というならわかります。

実際に、最後のどんでん返しがなければそうなっていたはずなんです。ゲームからの圧力なんてなく、「リュカ」がビアンカを好きだからビアンカを選んだはずだったんです。

ところが蓋を開けたら元々ビアンカ派のプレイヤーだけど今回はフローラを選ぶつもりだった。でも自己暗示がなくなったのでやっぱりビアンカにしました、ってそれじゃああの結婚イベントは何だったんだ!

どちらも魅力的だからこそ本気で悩んだはずのあの体験が、実はそうじゃありませんでした。フローラはゲームの強制力で選ばされそうになってたけど別に好きなわけじゃないよって。ビアンカにも別にVR内での体験で惚れたわけじゃなくて主人公が最初からビアンカ派だっただけだよって。自ら主人公と結婚する設定を覆したフローラに確かに宿った筈の「魂」がこの瞬間に霧散したんです。

てめぇのロールプレイは下手糞!それはフローラが好きな人のロールプレイじゃない!だからお前の嫁はビアンカな!って「リアル」を強制しておきながら「でもこれゲームだから!リアルじゃないから!」ってお前はいったい何を言ってるんだという感想しか出てきません。

(余談ですが、感想を見回った感じですと結婚パート単品の評価は高めです。主人公たちの思い悩む姿のリアルさに共感して評価しているのだと思いますし、それは分かります。問題なのはその折角血の通ったシーンになっていた部分を設定が台無しにしてきたことです。)

(あと変なところをリアルに寄せたせいで「いつもはビアンカだけど今回はフローラで」というゲームであれば当たり前の選択が、女性を自分の道具のように扱う屑男に見えてしまった人もいるのではないでしょうか。フローラの扱いに怒っている人にはそう見えたんじゃないかと)

 主人公が本当にドラクエを何度もプレイしてきたユーザーであるなら、きっとワクワクしながら「今度はどんなロールプレイをしようかな」「フローラと結婚したらどんなことをしようかな」「ビアンカには悪いけど今回は諦めてもらおう」とか色々と考えてたはずなんです。

けど、そういったどんなロールプレイをしようかというワクワクは全部ゲームから否定されて「主人公はお前だから!今回はフローラとかそういうのないから!」と押し付けられ、自由なロールプレイが全く楽しめない、狭い固まった設定通りにしか「リュカ」を演じることができないわけです。

そういえばゲームの中のヒロインが他のルートをプレイすることを許さずにゲームに侵食して自分しか選べないようにプログラムを改ざんする(という設定の)君と彼女と彼女の恋。とかありましたね。(別ゲーのネタバレになるので反転)個人的にはそのくらいの押しつけがましい強制だと思います。

控えめに申し上げてこのVRドラクエ5クソゲーです。いや、百歩譲ってテンプレの用意されたゲーム初心者には優しくCGも綺麗な新しいジャンルのゲームかもしれませんが、主人公になりきって遊ぶはずのゲームでどんなロールプレイをするかを強要されるなんてRPGとしてはクソクソのクソです。だったら最初から主人公もルートも固定の物語系のRPGでええやん、ってなります。

きっと彼らの世界では「リメイクのVRドラクエ5クソゲー」とあちこちのSNSに書き込まれて炎上していることでしょう。知らんけど。主人公はなんでこんなクソゲーを楽しめたのかが今の私の一番の疑問点ですね。

私はクソゲーVRドラゴンクエスト5」という概念を生み出した件についてはあのオチ以上に激ぉこですよ。結局何ゲーなんですかねあれ。ロールプレイングしないゲーム。

 

ウイルスの登場が唐突すぎる

これは各所で言われているやつですね。いきなりで唐突すぎてわけわからん、と。

この世界はVRだったんだ、までは実は結構伏線が貼られているというか、スラリンなどは超越者であることが直接的に表現されてます。

というのも、スラリンは主人公の影からついてきていて、船にも乗ったりしていて、一緒に旅しているならともかく後からこっそりついてきている設定にしては普通ついてこれないだろうという場所でもついてくるんですね。それこそ捕まっていた神殿から。

しかも出現の仕方も唐突でして、今何もないところからいきなりスラリン出てこなかった?とか、なんでスライムが人間の先回りできるの?といった違和感が小出しにされるんですが、敵本拠地での大乱闘では「逸れた主人公たちを追ってワープする」というかなり露骨な演出を挿んできました。

また、作中ではミルドラースからゲマに力を与えるシーンが何度か出てきており、それによって異常な力を得た結果本来壊されるはずのないバリアが壊されてしまったとか、マーサも「今回のミルドラースはおかしい、力が強すぎる」とか言ってたり、プサンが妖精の都の説明をするときにロボットが妖精の都を守っているという世界観的なちぐはぐさに対して「知らん。今回はそういう設定なんだ」といったようなことを発言します。

主人公の「このクエストを終わらせれば~」といったいかにもゲーム的な用語などの発言もあったりしますね。

つまり、作中では「なんかこの世界変だぞ」「辻褄が合わないぞ」「妙にメタっぽいぞ」といった違和感の種はきちんと仕込まれてはいます。

しかしながら問題は、「VR世界であることへの仕込み」はしていても「その必要性を説明するための伏線」がないことです。

例えばスラリンは、なるほど確かに最初から怪しかったもんな!とは思っても、「じゃあなんでそんなワクチンプログラムさんがいるの?何の目的で?」となるし、ウイルスについても「いや、何が目的でんなことしたのよ。え、ゲーム嫌いだから?なんでそんなにゲーム嫌いなのさ。っていうかそこまでゲームの邪魔したいならなんでミルドラースと入れ替わったわけ?ラスボスにならなくてももっと序盤に邪魔しとけばよかったじゃん。そこんとこどうなの?」といった別の疑問が出てくるわけですね。

あれです、推理小説に例えて言うならハウダニット(犯行方法とかアリバイトリックとか)はちゃんとできてるけどホワイダニット(どうして犯行を犯そうと思ったのか)が宙ぶらりんなんですよ、この映画。

だから仕掛けそのものはしっかりしてても、理由が語られない以上唐突感はどうしてもぬぐえないのです。

ウイルスを出すのであればもう少しウイルス側の心情と言うか、もっとボス側の演出を増やすべきでした。「おのれ、絶対に奴を仕留めてやる…」とかそういうベタなのでいいので。もっと悪意を表面に出していくべきだったんですよ、逆に。

 あとは仕込みが露骨すぎる部分で醒めてしまった人もそこそこいるようなので、もうちょっと隠した方がよかったのかな、と思う部分もありました。

 

ゲームは現実じゃないことはプレイヤーが一番分かってる

どうもこの部分について誤解や偏見がある気がするんですけど、ごく一般のゲームユーザーはゲームの世界が空想の世界だなんて百も承知ですし、それを分かった上で遊んでますし、現実とゲームの世界を混同なんてしてないんですよ。

ちゃんと分けてるからこそ「ロール・プレイング」なんです。役割を演じているんですよ。

そこを記憶を消してリアルな体験だとか、むしろそんな発想が出てくる人の方が現実とゲームを混同してるんじゃないですかね。変に混ぜる必要なんてありません。

そうやって分別あるプレイを楽しんでいた、当時子供だった大人が、子供連れで映画を見に来ているような所で「ゲームなんて所詮現実じゃないんだよ!」とか言われれもゲームに肯定的で現実と区別ができている立場からしたら「そっすね。それで?」としかならないんです。

議論のテーブルにすらつくことのできてないただの説教ですらない一周遅れの古い屁理屈を振りかざすイチャモンおじさんでしかないんですね。

そのイチャモンおじさんのせいで唐突に現実に引き戻されて興ざめだというのは分かります。

いくら最後に元に戻ったとはいえ、一度舞台裏を見てしまった後にすぐに何事もなかったかのように物語に戻るというのも難しいでしょう。舞台裏を見てしまった人間にはどうしたって虚無がつきまといます。作り物だと知っていたはずなのに、どこか虚しさを感じてしまうのです。そういった意味でイチャモンおじさんはとんでもないことをしていったし、怒りを覚えるのも当然と言えば当然です。

しかしながら個人的にもっと問題だと思うのは、社会人として普通に暮らしていて堂々とVRゲーム施設に訪れるような自分に自信を持った主人公であればウイルス氏の打倒はカタルシスに繋がらないんです。うざいイチャモンおじさんは乗り越えるべき壁じゃなくてただの障害物にしか過ぎないんです。ラスボスが小物すぎて締まらない現象ですね。

もちろん周囲からの偏見に晒されてきたゲームユーザーというのも大勢いるわけで、そういった人を肯定するというのは一つの評価点とも言えます。(実際に胸を打たれた方もいます)

けれど、それをそうではない人にも共感してもらうには主人公は今度はもっとそれこそ自尊心のない典型的な記号としての陰キャみたいな設定にしないと説得力が出ません。

イチャモンおじさんがただのイチャモンおじさんではなくて客観的に見ても強大な敵になるためには周囲の偏見に晒されてきた傷ついた主人公が必要で、そんな主人公が物語を通じて成長し、自信を持ってこの世界で体験したことは本物なんだと言い切って世間からの呪いを打倒することで、やっとカタルシスが発生するんですね。

ところが当然そんな背景全くなく、ただのゲーム好きな主人公がイチャモンおじさんを殴るだけなので盛り上がりに欠ける仕上がりになります。ここでもやっぱり設定と物語との齟齬が発生しているわけです。

ドラクエ抜きにしたってつまらない作品だと言う人がいる理由をおわかりいただけましたでしょうか。 

 

そびえ立つ矛盾の山の原因とそれを解消できる可能性

さて、ではなぜ物語中のVRドラクエ5クソゲー、もとい初心者しかまともにプレイできない間口の狭すぎるRPGではないゲームになり、登場人物は物語を進行させるための単なる記号になり果ててしまったのか。

それはオチから物語を作ったことと、主人公の設定がオチに見合わなかったことにあると思われます。

個人的な話をするなら、映画と言う枠の中で劇中劇ネタ、メタネタを持ってくることそのものは別にそこまでおかしくはないし、効果的に使えばインパクトもあるし、悪いことではないと思っています。

ですがそこにあわせたギミックを作ったはずなのに、主人公の設定はそのギミックに似合わないものになってしまいました。「本当にその設定の主人公ならそんな行動するはずあるか!」という、ゲーム好き視点からはありえない行動を連発してくれたのです。

恐らく監督陣はゲームユーザーからの意見聴取によって「プレイヤーたちが何を感じたのか」だとか「そんなゲームユーザーたちがどう成長したのか」は理解できたのでしょう。そのあたりは案外丁寧にやってくれたんじゃないかなと思います。

ですが彼らは、出来上がったものを見るに、「プレイヤーたちがドラクエをプレイして『なぜ』そう感じたのか」を理解できなかったのではないでしょうか。

理由、因果を理解することができないままに結果だけを見て、想定したギミックを動かすための主人公という駒ができたのでしょう。でもその駒はどう動くかは決めていても、そう動かすための動機付けができるほど『なぜ』が理解できていない。

だからユア・ストーリーの主人公には血が通っていないただの記号に成り下がってしまったし、物語に破綻が出てしまったのです。

それこそ監督たちが取材したのは、ゲームをゲームとして正しく消費して、正しく物語を真実にして現実へ反映させてきた、健全な人たちだったんでしょう。だから主人公はちょっと軽薄なきらいはあるものの、いわゆる陰キャ的な記号は持っておらず、ふつうの男性だった。そのへんは実は誠実だったんじゃないかな。

けれど彼らにとってのゲームユーザーは否定されてきた存在という意識しかなかったんじゃないですかね。全世界売上7800万本を突破しているほどのゲームなんですけどね。社会現象も起こしたんですけどね。でも否定された存在なんですよ。だからちぐはぐになる。

自分を投影したはずのキャラに自分ではない別の物語のヒーローの名前を使ったのも、ドラクエユーザーに話を聞いた時に実際にそういう人がいたからなんじゃないかと思うんですが、なぜその名前をつけたのか、他人の名前をつけて本当に自分とイコールで繋がるのか、というところまでちゃんと詰めてほしかったですね。

私はこの映画のオチは否定しません。決して好きなオチじゃないし他人におすすめできないしドラクエ映画でこれをやるべきだったとは思いませんが。

ですがオチの見せ方と、なによりそのオチまで持って行くために主人公が単なる記号化してしまい設定とキャラが乖離したことは大問題だと思います。

「言いたいこと自体はいいことだからよかったんじゃない?」と思える人もいるでしょうが、間違った前提から出された結論がたまたま正解だったとしても、算数だって途中の式が間違っていたら部分点は貰えるかもしれませんが正答にはなりません。

ところが、この矛盾については主人公の設定を少し変えるだけで全部とはいかなくてもかなりの部分解消できると思います。

それは主人公を「初めてドラクエをプレイする人間」にすることです。

 

 

ぼくのかんがえたさいきょうのユア・ストーリー

www.wakatsukikeita.work

ということで、こちらのブログに便乗してさいきょうのゆあすとーりーを考えてみました。

 

 

さて、ここにゲームにあまり詳しくない、ドラクエも話に聞いただけでプレイをしたことはない「あなた」がいるとします。

あなたはたまたま新作VRゲーム「ドラクエ5」を遊ぶことができるチケットを手に入れました。内心ゲームなんてただの空想じゃないか、と小ばかにしたようなところはありますが、最近流行で普通なら予約をしても何日も待たないといけない、プレイもけっこうお高いといった話題のゲームです。周囲でも話にのぼることもあります。別段予定もないし、話のタネにもなるし、タダで暇つぶしできるなら一度やってみるかと施設を訪れます。

しかし初めてで何をどうすれば分からないあなたは係の人に素直に相談します。初めてでどうしていいかよく分からないんですけど、オススメとかあります?と。

「でしたらこちらのゲーム初心者コースはいかがでしょう?物語の一部をカットして重要なイベントのみ残して再編集したモードで、手軽に遊べますよ。幼少期は特に過酷な体験が多いのでダイジェストモードにしましょうか。ロールプレイが苦手な人や分からない人のために、自然に役に入ることができるよう、プレイ中に現実の記憶をロックすることもできますよ」

「あ、じゃあそれで」

「このゲームでは途中で結婚する相手を選ぶことができますが、もし希望があればどちらにするか最初に決めておくこともできますよ。そうすることで最初から結婚相手があなたのことを無条件で好きになってくれます」

「ふーん。(絵を見る)あ、こっちの子の方が可愛いじゃん。じゃこっちでお願いします」

「フローラですね。分かりました」

「俺あんまりファンタジー?とか興味なくて。SFとか好きで結構見たりするんですけどね」

「ではオプションでメタルハンターとのバトルを追加するのはいかがでしょうか?リメイク前には出てきていた機械型のモンスターなのですが、今回は残念ながら出現マップがカットされてしまったんです。そのようなモンスターはオプションで追加することもできるんですよ」

「え、ロボットいるの?いいじゃん、それも追加で」

「主人公の名前はどうしますか?世界に入り込めるように自分と同じ名前をつけることをおススメしておりますが」

「いやー、それはちょっと恥ずかしいからパスでお願いします。何かこう、決まった名前とかないんすか?」

「そうですね。会社名からエニクス、ナンバリングからファイブ、アベルという名前もありますし、小説ではリュカという名前でしたね」

「あ、最後の。リュカ、かっこいいじゃん。それでお願いします」

「かしこまりました」

 

これで「主人公の設定と矛盾することなく作品中で使いたいギミックを仕込む」ことができました。

更に記憶のロックをあくまで追加オプションにすることで、自分のRPを大切にしたい人も問題なく遊べるようになりVRドラクエ5クソゲーから脱却できます。

時間的に都合がつかないならいっそヘンリーもオミットしていいんじゃないかと思います。だってヘンリーのエピソードってなくても物語は成立しますし、マリアをカットした時点でお互いの子供の交流とかそういうイチオシエピソードも使えなくなるんですよね。

その分できた時間をパパスやビアンカの描写に回せばよかったんじゃないでしょうか。例えば最初に主人公が襲われる場面から入って、パパスがそこに助けに入るんですよ。涙ながらに謝る主人公の中には花があって、パパスにプレゼントしようとしてたことが分かります。これで主人公が父親が大好きなことが分かり、その後パパスが「気持ちは嬉しいが、危ない事はするんじゃない」とか注意しながら主人公の傷をホイミでも使って直せば原作の例の戦闘後ホイミ再現できますよね。

ついでに「お父さんの魔法はいつもすごいね!」とか言わせたら、まあ説明臭くはなりますが初見の人にも剣と魔法の世界でなんか呪文唱えたら使えるんだなーそれもボンボン爆発するだけじゃないんだなーくらいは分かるじゃないですか。

そして結婚イベントの時も、ゲーム開始前は顔を見てなんとなくで選んだだけだったのに、その人となりを見て彼女たちを「リアルに」感じることで、「ビアンカ派だったからビアンカを選んだだけ」から「最初は顔だけで選んでいたのがちゃんと接することによって心からビアンカを好きになってプロポーズした」という話にできますし、フローラも「ロールプレイを強制させるための装置」から「選ばれてはい結婚、ではなくて自分の好きな人に本当に好きな人を選んでもらうために行動できる芯が強くて思いやりのある女性」になります。

また、メタが好きな人にとっては下位存在が上位存在に反旗を翻す、とか、親からの独立、とか、神への反逆、とか好きだと思うんですね。

映画だとビアンカ派だけど今回はフローラで、だった主人公を監督の言いなりになって舞台装置として薬で強制したフローラが、何も知らない主人公が予め顔だけで結婚相手を選んだ設定にすることで決まり切った予定調和から自分の意思で抜け出す生きた人間になることができるのではないでしょうか。

そうやって冒険していくうちに、ただのかりそめの世界だったものが次第に血と肉を伴った「リアル」にかわっていくわけです。それはゲームだけど、ゲームだからこそ心動かされるものもあるし、フィクションの世界でもリアルな体験ができる。

そうして感情移入することで最初はなんだか冒険を面倒がっているところのあった主人公が、浚われたビアンカを助ける時には必死になって大事な人を救いにいくわけです。

王道の一つである成長要素も入ってきましたね。

そして道中には裏でウイルスが暗躍している伏線をもうちょっと具体的に入れたらどうでしょう。占いオババの薬は変化したゲマがフローラへプロテクトを破壊するような薬を渡したものだったことにしたりとか。(ミルドラースは魔界の門が開くことでやっとゲーム世界に本格的にハッキングできたので、流石に本人(?)をこの時点で出したら整合性が取れない)

あ、この薬を飲んだせいで子供が双子じゃなくて男の子だけになったとかいいですね。元々は勇者が生まれないようにプログラムを破壊するための薬を渡したけど、結果的に自己暗示プログラムの破壊で勢いが弱まって勇者の誕生を阻害することはできなかったと。でも女の子の方はこの薬のせいで生まれなくなってしまった、とか。

ラストのウイルス戦では最後に残るのはスラリンじゃなくて息子の方がいいんじゃないかと思います。それもなんとなく残っていたんじゃなくて、唯一ただのプログラムじゃなく、VR世界に入り込んではいるものの現実の存在である主人公が庇うとかどうですかね。親子三代の絆の物語なんでしょ?

あ、ウイルスはミルドラースに擬態したんじゃなくて、ミルドラースを乗っ取ったという設定に。でないとオチで困るので。

ウイルスによってどんどんただのデータになって消えていく仲間たち。あ、攻撃方法は指パッチンじゃなくて謎のデータ修正ビームとか出したらいいんじゃないですかね。そしてその魔の手が息子に伸びたところで主人公が咄嗟に「危ない!」と庇うわけです。

すると今まで「リュカ」だった主人公が現実の青年の姿(顔とかはあまり変わらないようなので髪が短くなったり目の色が変わったり服装がスーツになったりって感じでしょうか)に変わります。息子も驚くでしょうね。

ネタばらしするならこのタイミングでどうでしょうかね。これは実はゲームの世界だったんだ!なんだってー!とかやりながら冒頭の前日譚を流すわけです。

そうして現実の姿に戻った主人公に、ウイルスが言うんですよ。「お前だって別にゲームが好きなわけじゃなかっただろう?」「ただの空想じゃないか」「ほら、下らないゲームなんて放っておいて現実に戻れよ」と。

確かに主人公はチケットを貰ったから来ただけで、ゲームが好きでもなんでもなくて、まあ暇つぶしにはなるだろうといったくらいの軽い気持ちだった。

でも実際に体験して、そこにいるキャラクター達の生き生きとした姿を見て、それは確かに架空の世界だけどそんな彼らを本気で愛して本気で冒険した自分が確かにいたんです。

主人公はウイルスの言葉を否定します。「確かに最初はそう思ってた。でも違うって気がついた。この世界は空想の世界だけど、そこで悩みながら生きて来た俺の物語は嘘じゃない」と。

そして守った息子の手を取るわけですよ。「一緒にミルドラースを倒して、みんなを、母さんを取り戻そう」と。

伝説の勇者である息子の手には天空の剣。ウイルスとの激しいバトル。しかしその攻撃は元々リアルの存在である主人公にはきかない。

そうして息子を攻撃から庇いつつ、隙をついて息子が天空の剣でとどめをさします。

上位存在の打倒。そしてありがちの「こんなはずがない」というボスの断末魔。

「お前はウイルスだけどミルドラースなんだろ?ミルドラースは天空の剣で倒せるにきまってるじゃないか」

ウイルスに必然性を求めるなら、ここで更にウイルスを仕込んだ理由を自白させるのがいいですかね。こう、ゲームのせいで辛い思いをした系の。でもプログラマーがゲームを嫌う理由がそもそも分からないんだよなあ。プログラマーってゲーム好きな人種じゃないんですか?いやまあそうでもないのか。

ああ、下手にプログラムされたものにするよりバグにした方がいいかもしれませんね。そうすることでヘイトをかう誰かはいなくなりますし。何度も何度も倒されるだけのミルドラースがバグって倒されるのが嫌になって今度はこっちがお前たちを倒してやるみたいな。ゲームを否定するプログラムに逆説的に「魂」が宿るという。ただそれやるとゲーム賛歌としては弱くなるんだよなあ。

とにかくラスボスが倒され、世界は元に戻りエンドロールへ。

そして現実の世界に戻った主人公。いつもの生活の中で、ふと困っている人を目撃します。

その時脳裏に浮かぶのはゲームの中での体験。「リュカならきっと、困っている人を見過ごさないよな。俺は「リュカ」なんだから」とその人を助けにいって終わり。

とかどうでしょうか。

 

ぼくのry解説

 映画の根幹部分であるオチを極力そのままの形にしながら、主人公の設定とキャラの動きを一致させつつ、ギミックを発動させるためのムーブが不自然なものにならないように、と考えるとこんな感じになりました。

主人公の成長要素(ゲームに懐疑的な立場から成長を通じて認める立場へ)を入れることで王道展開を盛り込みながら、変な話「ふつうのひと(ゲームする人だって普通の人なのでこういう言い方はあんまり好きじゃないんですけどね)だってゲームをいいものだと感じるものなんだぞ」と肯定アピールできますし。

あと、主人公が息子を庇うシーンはパパスが主人公を庇うシーンも事前にどっかに入れておいてそれとそっくりになるようにすることで、受け継がれる親子の愛とかも演出できたりしないですかね。

エンドロールは現実世界の後日談を入れることで、ゲームはいいものなんだぞというのを単なる言葉での説明じゃなくて描写で見せることができます。

VRドラクエ5クソゲー化阻止は個人的に大きなポイントです。というかドラクエ藤子不二雄を目指している」とかいう逸話が残っている(大人も子供も初心者も慣れた人も誰でも楽しめるコンテンツを目指しているという話だったはず)ドラクエなのに、ロールプレイ強制してくるような間口の狭いVRドラクエ5を劇中劇とは言え登場させるって堀井さんは本当になぜゴーサイン出したんでしょう。これで。

 個人的にこの案の最大の利点は、主人公を未プレイヤーにすることで監督がつく「嘘」が少なくなるところです。

物語の世界はどうしても嘘、という言い方だと語弊を招くかもしれませんが、空想が交じります。その空想部分をリアルに感じてもらうためには不要な部分で嘘をつかない(リアルが反映できる個所は積極的にリアルを反映させていく)方がいいかと思いますし、なるべく自分の中に近い実体験がある事柄を題材にした方がいいと思います。

多分同監督で評判がいいアルキメデスの対戦は、それに近い実体験を持ってるんじゃないですかね。だから嘘がすくなくて済んだんじゃないかなと。勝手な想像ですけど。

まあともかく、脚本を書く人間がゲームをプレイしたこともないのに、わざわざ既プレイどころかリメイク履修済みらしきファンを描くということがはなから無謀ですし、そんなもんよほど嘘が上手い人じゃないとそりゃ作り物っぽい記号っぽい存在になって当たり前じゃないですか。

だったらいっそ初めて遊ぶ人間を主人公にすればよかったんですよ。それだって十分観客の共感は得られたはずです。だってドラクエをプレイしたことがある人なら、どれだけ沢山遊んだ人だろうと、必ず「初めてプレイした体験」を持っているんですから。

何もかもが初めての主人公は、物語の主人公としては頼りないかもしれないけど、既プレイヤーよりも初見の人に近い存在になれますし、プレイ済みであれば観客それぞれの「初めてのプレイ」を思い起こさせることはできたんじゃないでしょうか。 

正直オチを変えない時点でどうしたって賛否両論にしかならないんですけど、自分の案だって正直改善案としてはかなり弱いなぁと思いますけど、それでもこっちの方がまだいくらか受け入れられる人が増えるんじゃないかなあ。知らんけど。

え?そもそもオチがヤバイんだからオチから改善しろ?

ド正論で何も反論できないんですけど、どうすれば被害が減らせたかという思考実験なのでお許しください。

 

まとめ

こんなものをどうやってまとめるんだろうと自分で書いてて思いますが、とりあえず娯楽作品としては見なくていい作品ですね。

でも映画館で上映が終わった時のあの怒りやらやるせなさやら虚無やらに包まれた筆舌に尽くしがたい空気感は、創作を志す人間なら一度体感した方がいい気はします。作品作りの参考になると思います。

映像や音楽など、点を見た時にはすごいと思うものはありました。山崎監督は記号の羅列の点繋ぎをしてくれるサポートを準備するか、嘘をつかずに自分の引き出しの中から取り出せる要素のみを使った作品を作るといいのではないかと思います。昔見たジュブナイルは楽しかったんだよなぁ。

 

追記

ドラクエプレイ済みか否かに関わらず、物語を点で見る人と線で見る人でも評価が分かれると思います。

時系列や伏線があれば線になるわけではありません。この映画は時系列順に点を打ってるだけです。

点で見たときにはそこそこ面白かったりしますし、それこそ最後のメッセージを点として受け取った人などは肯定しやすいと思います。

自分はそこは点を打って満足するのではなくちゃんと線で繋げるべきだろと思いますが。

あとカットすべきエピソードですが、もう過去へのタイムワープとかドラゴンオーブのくだりもオミットして、幼少期エピソードを厚くしたらいいんじゃないかな。

 

追記2

フローラとビアンカは女の子としてとてもかわいく描写されており、だからこそ結婚パート単体の評判はそこそこ高いのだと思いますが、主人公の心変わりの唐突さだとかビアンカのことを好きになったきっかけも理由もわからないという人もいるかと思います。(まあ好きになったきっかけなんてなかったんですけど。元からビアンカ派だっただけなんですけど)

このあたり本当にゲームキャラであり映画キャラである女の子二人には「魂」が宿ってるくせに、現実世界の人間という設定のはずの主人公に全く「魂」が宿ってないのギャグかな?と思いますけどそれはおいといて。

個人的には「好きだからこそ主人公の身を案じ、しかし戦う能力はないので離れたところで祈ることしかできない昔ながらのお姫様ヒロインであるフローラ」と「戦う能力を持ち、いわゆるテンプレ的な「女性らしさ」は持ち合わせていないけれど主人公の隣に立って戦うこともできる相棒的ヒロインであるビアンカ」の対比をもっと明確に描写したらよかったのかなと思いました。その描写のための子供時代がさあ……ダイジェストだからさあ……。

例えばビアンカとの再会のシーンで「二人にしか通じない共通の話題で盛り上がる」などして主人公の幼馴染であることを強調してみたりとか、主人公の実力そのものを評価していることをもっとアピールしたりとか。

ブオーン退治の後にビアンカが「伝説の勇者なんかじゃなくてもブオーンを倒したんだから、それってリュカ本人がすごいってことだよ」みたいな セリフ言うの本当に好きなんですよ。自分が好きなのは勇者という記号じゃなくてリュカ本人なんだってもう王道じゃないですか。

そこをもっとアピールしてですね、勇者とかむしろ最初から信じてないくらいの立ち位置でよかったんじゃないですかね、ビアンカは。そんなの関係なく、ただ幼少期に一緒にお化け退治した主人公を信頼してる、でよかったんじゃないですかね。それでもってリュカに全幅の信頼を寄せてる描写をして「心配して戦いから遠ざけたいフローラ」と「信頼して戦火につっこませるビアンカ」の対比をもっと強調したらどうでしょうか。

主人公のアイデアとかは自信ありげに話すよりも、自信なさげに話したところをビアンカがノータイムで「わかった、それでいこう」って了承すると好みですね。主人公の方がむしろ狼狽えて「いいの!?」みたいな。それに「あんたはいつだって約束を守ってくれたじゃない」みたいな。その約束は過去のレヌール城の冒険の中のエピソードなんですよ。なんでお化け退治削ったんだ。ヘンリーと妖精の都を削ろう、マジで。

謎の薬を渡すシーンについては、薬の出どころとかはもちろん突っ込み所はあるんですけど、でも「結婚と言う予定調和を自分の意思で壊してただ好きな人が好きな人と結ばれることを願う」という、主体的に選ぶ立場になって、守られる姫から戦う女になるシーン王道でいいと思うんですよ。

 

追記3

本質的に、この映画を肯定している人は「映画の物語」を肯定してるんじゃない気がするんですよ。

「映画の物語を通して映し出したドラクエ5」や「映画の物語を通して映し出した自分」を肯定している人と、「映画の中の記号」を肯定している人はいても、映画の「物語」そのものを肯定している人がどれだけいるんだろうって。

それ自体は悪い事ではないし、そうやって心を揺さぶれるであろう人間にだけターゲットを絞るのも全然アリだと思います。

でも、この映画は「皆が楽しめる」ものを目指して制作を依頼されたはずで、「該当の原体験を持っていない人に傷を残して忘れられない体験にする」ことを願われたわけじゃないと思うんですね。

だからゲームを原因に周囲に傷つけられた人たち以外でも楽しめるようにちゃんと工夫すべきで、例えば一つの回答としては実際にちゃんと酌を取って何に傷ついてきたのかとかどんな偏見に晒されたのかとかを描写しつつ、ゲームに救われたことも同時に描写するべきなんじゃないかと考えます。

そうしたら、まあそれでも楽しめるかどうかは人によると思いますけど、主人公がどういう人物なのか理解することで原体験がなくてもある程度は感情移入できるようになるはずですし、今みたいによく分からない何かをいきなり眼前に叩きつけられて消えない疵を追うようなことはなかったんじゃないかと思います。

そういう工夫がなくて、オチが合わない人に対して逃げる間もなく切りつけていくような作品がユアストーリーなわけで、それを雑と言わずに何を雑と言えばいいんでしょうか。芸術としてはアリでもエンタメとしたら失格でしょう。

で、そうやって今までにも同じような雑なことをして傷を残してきた監督のことをそれこそ芸術家や作家としての評価はしても、エンターテイナーとして下手に評価されたらそれこそ第二第三のユアストーリーが出てきたら嫌だなって。

ですので芸術作品として見所はあるとか、その作家性は全否定されるべきものではないとかそういう前提はちゃんと提示しつつ、山崎監督は共感力や想像力が多分そういう方面には伸びてなくて色々と雑なのではないかという疑問は呈しておきます。